努力しても報われない時期、選択を誤ったと感じる瞬間、あるいは歩みを止めてしまったとき〜喫茶猫屋堂整体〜CS60LOHAS北九州緩み
- 管理者

- 9月18日
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新宮町花立花にある喫茶猫屋堂には電池が切れて止まった時計がある。
茶色い壁にかけられたまま、ハートの時計の長針と短針は重たそうに同じ場所にとどまり、もう何年も動きを見せていない。普通なら、それはただの壊れた道具にすぎないだろう。しかし私は、その時計を眺めるたびに、不思議な感覚にとらわれるのだ。
「止まっているのに、日に二度、正しい時刻を告げている。」
そう考えると、壊れているはずの時計が、ふと尊いものに見えてくる。
無用に思えるものが、思いがけず真実を示す瞬間がある。これは時計に限らず、人にも同じことが言えるのではないだろうか。
人は誰しも、思うように進めない時がある。努力しても報われない時期、選択を誤ったと感じる瞬間、あるいは歩みを止めてしまったとき。
しかし、動いていないように見えるその時期も、止まった時計のように、人生のどこかの一瞬で「正しい時刻」と重なるのかもしれない。
偶然と必然。
この二つはしばしば対立する言葉のように扱われるが、本当は絡み合っている。偶然に思える出来事も、実は必然の糸に導かれているのかもしれない。
例えば、たまたま出会った人が、その後の人生を大きく変えるきっかけになる。偶然のように見えて、それは運命が用意していた「必然」だったのではないか。
私はCS60の施術を通して、そうした「時のめぐり」をよく感じる。
身体に触れ、流れを整えるそのひととき、人は止まった時計のように眠りに落ちることがある。
しかし目覚めた瞬間、あるいは帰り道、ふとした気づきとともに「自分の時が再び動き出した」と語る人がいる。
つまり、止まっているように見える時間も、決して無駄ではないのだ。
むしろ、その「止まり」があったからこそ、次に針が動いた時、その瞬間の意味は際立つのかもしれない。
偶然に導かれるように喫茶猫屋堂に訪れる人がいる。
「なんとなく来た」という言葉の奥には、必然が隠されている。
止まった時計が正しい時刻を告げるように、誰かがここに訪れる瞬間も、人生の大きなめぐりの一部なのだろう。
私は思う。
人が歩む道において、完全な「間違い」など存在しないのではないか。
止まったままの時間も、動き続ける時間も、すべては運命の大きな流れの中で調和している。
だからこそ、自分の足取りを信じていい。
止まっているように見えても、必ずまた、針が動き出す時が訪れるのだから。
最後に、その止まった時計をもう一度見上げてみる。
たまたま視線をやった瞬間、その針は今の時刻とぴたりと重なっていた。
偶然か、必然か。
その答えは、きっと誰も知らない。
けれど私は、その静かな一致に心を温められた。
それは「人はいつでも、自分の正しい時に出会うことができる」という小さな約束のように感じられたからだ。
喫茶猫屋堂整体





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