心が受け取ろうとする準備ができているかどうかについて考えたこと〜喫茶猫屋堂CS60施術日記〜CS60LOHAS北九州緩み
- 管理者
- 2 日前
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木を見て森を見ず。
映画のワンシーンの写真だけを見て、動画を見ていない。
人は時間の制約があり、また過去の経験や様々な情報があるので、こういったことをしてしまいがちである。
長時間、勉強していて、少し休憩していたとする。どちらか一方のシーンしか見ていない場合、その印象は大きく異なる。
だが、たまたま今日だけ掃除していて、それをたまたま見た人が、この人はいつも掃除をして、感心だと思われる場合もある。棚からぼた餅のように好印象が得られる場合もあり得る。
この印象を分けるのは何なのか。誰かからのメッセージなのだろうか。
私はふと、静かな新宮町花立花の住宅街にある喫茶猫屋堂の小さな施術の部屋で、その問いを思い返していた。
窓の外では、秋の風に乗って揺れる木々の影が、白い漆喰の壁に模様を描いている。
その影もまた、一瞬の切り取りで見ればただの黒い線にすぎない。だが時間をかけて眺めると、それは枝葉のリズムであり、森の呼吸のように感じられる。
「印象」というものも同じだろう。
ほんの断片が、時に人の評価を決定づけてしまう。
けれど、その背後には、誰も見ていない長い時間が流れている。汗をかきながら努力を続けた日々や、言葉にできない思いの積み重ね。
CS60の施術をしていると、そんな「背後にある時間」に触れることがある。
一見すると穏やかに見える方の身体に、知らず知らずのうちに積もった疲れの影が潜んでいる。
それをゆっくりと撫でるように流していくと、やがて相手の呼吸が深くなり、体が小さく「ありがとう」と囁くように緩んでいく。
その瞬間、私は思うのだ。
印象を分けるものは、偶然の出会いや一瞬の出来事ではなく、「心が受け取ろうとする準備ができているかどうか」なのだと。
掃除している姿を見た人が感心するのも、ただ見たからではない。
その人の中に、元々「美しい行いを讃えたい」という心があるからだろう。
つまり、誰かからのメッセージというより、私たち自身の内側のレンズが、印象を作っているのかもしれない。
窓の影が、ふっと形を変えた。
森は森としてそこにある。ただ、私の目がどの一瞬を選び取るかで、その姿はまるで違って見えるのだ。
そして私はまた今日も、この部屋で、誰かの一瞬をそっと照らす仕事を続けている。
CS60LOHAS北九州緩み

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